どこても、親が亡くなると、後の始末をしなくにはならない。
父が亡くなって、そのままになっていた。、母が亡くなって、整理に追われる日々。もうそろそろ限界だなあ、と思う頃になって。ようやく、型がつき始めた。
その間に、忘れていた、思い出すことの数々。
父と母が住んでいた、二つのマンションの一つに息子がいずれ住みたいと言う。
忘れてきたこと。
息子は日本に帰るたびに、うちには帰らず、母のマンションで寝泊まりしていた。
わたしもその間は母のマンションで一緒に過ごしていたことを思い出した。
母が駅近のマンションを買ってから、父と母は、そこに住んで、会社に通うようになつた。
我が家の近くにあるマンションに、家財道具を置いたまま、新しい世帯道具を揃えたので、家を二軒分の、遺品整理。
頂き物は、使われることなく、増え続け、ゴルフの景品も、
さまざまな場面で買ったものは、新のまま、大事にしまっているので。捨てるのは忍びないものばかり。
父が読んだ書物の膨大な数をみると、時間の長さに驚く。
だけと、父や母にとって、喜びが、それらを手にすることで存在し、欲望は、満たされ、存在価値は、あったわけで、
残された遺品を処分することな。それほど抵抗感を抱く必要はないのだとも思う。
人間は、裸で生まれて、身一つで、死なねばならない。
だからこそ、生きているうちに、喜びの多い選択ができることは、とても大事なことなので、
膨大な数の遺品は、二人が幸せな人生を送ることができた証のようにも思う。