スリランカに行って、外国人がスリランカで、特権階級に属す生活をしているのを見て、
思ったことは、人を使う外国人と使われる現地人との間に、植民地的な関係が、存在している
ということだった。
友人に、アウト、オブ、アフリカを思わせる、と言った。
ベランダで、メリルストリープ扮する、コーヒー園の女主人と、ロバート、レッドフォード演ずる、自由で何者にも束縛されることを嫌う、ハンターが、ベランダで、音楽を聴きながら、くつろぐ姿に似ていると思ったから。
女主人は、何もかも失って、祖国に帰る時、現地で使っている従僕の手袋を外す。
自由に生きるハンターは、ガランとした屋敷を見て、家での寛いだゴージャスな暮らしが愛おしくなったという。
ハンターは、パートナーであり、束縛しない生き方を貫こうとするが、女主人は、束縛し合うのが愛の形だと思っている。
最後には、女主人が、自由であることの意味を身をもって体験するわけだけど、
スリランカでも、フィリピンに住んでいた友人の話から聞いたことからも、
安い賃金で雇う使用人に対する対応が、主人と従僕という、不平等な関係にあることがわかる。
私が違和感を覚え、居心地の悪さを覚えたのは、そういう関係においてであった。
一泊2日の、自動車付きの旅行は居心地の悪いものだった。
病気の奥さんを抱えて、日帰りで、家まで帰る運転手に、ホテルのチェックアウに迎えてくれれば良いと言った。食事をしている時、同席しない運転手がどこにいるのか、気になって、落ち着いて、食事ができなかった。
どこに行くにも、自分で荷物をもち、公共の乗り物しか使わなかった私が、家から。最寄りの駅まで、タクシーをお願いするのは、バスのない時間だけ。
ドバイに行った時に、ポーターに頼むように言われたけど、どこでどう頼むのかわからないし、経験ないから、自分で運ぶ。
人を使うことに慣れると、使う側に属するようになり、それは、人間の関係に対等性を失うことになる。
文句を言う。叱る。上から物を言ったり、相手のことを思いやる気持ちよりも、自分の尺度に合わせて、要求が先に立つ。
本来、人間は、助け合い、補いあって、生きていかなければ、成り立たないのだけれど、
それは、当たり前のもとではなく、困難や弱さを補ってもらうことであって、特別なことなのだということを、植民地的生活が、忘れさせるのではないかと思う。
お金で、雇う関係なのだけど、自分が成り合いとして稼ぐ金額の、何分の一で雇えるところで、
人を使っているのは、植民地的と言わざるを得ない。
日本も、かつては植民地で、韓国や満州で、安い労働力で人を使っていた人達がいる。
そういう人達が、高飛車に物を言う習慣が抜けずに、貧しい日本で、馴染めない生活で苦しんだ人もいるだろう。
私は、人を使う生活は、したくない。
できないことをお願いすることはあるけれど、対等でありたい。