不信心極まりないわたしが、習慣になると、お参りにいかないと、落ち着かない。
お墓は、お彼岸に行ったのだけど、祖父母の一心寺も気になって、お彼岸とお盆には。欠かさない。
母のお供でわたしは、京都の大谷さんと一心寺に行っていた。
お参りはどうでもよくて、後の食事が楽しみだった。
何を食べようか?
いつも迷いに迷う。
母は、なんでも良い。
小さい身体で、大食漢だから、店の人は感心する。
胃袋が大きいのよ、と笑う。
、一心寺のお参りは。母の代理と、わたしのために、距離を難なく歩けるから、という気持ちとの、ダブル効果を楽しめる。
一心寺に着くと、人影は少ない。
コロナで控えている人が多いのだろう。
一心寺は、納骨寺なのだけど、
看板に、納骨の制限が書かれている、
最も小さい骨壷で、9センチ以内のものになる。
納骨しても、ほとんどが、捨てられて、仏様に使われるのはわずかだと聞いていた。
お墓を持たない人。墓終いをする人も多くて、納骨したい人が増えて、
扱いきれなくなっているのだろう。
桜が蕾をつけて、少し咲き始めた。
もうすぐ、一気に満開になるだろう。