お盆は、お墓参りで明け暮れる。
昨日は、午後からお墓参り。
行きは。お墓帰りの車なのか、対向車が渋滞していたこで、覚悟していたけれど、わたしが帰る頃は、渋滞もなく、スムーズ。
お墓のお花は、萎れていれば買おうと思ったが、
前に来てくれた人がお掃除もお花も。
で、わたしはお参りだけで楽だった。
お墓仕舞いをする人が多く、テレビで山のように積まれた墓石に、お坊さんが一人供養している風景が出ていた。
昔は。お墓を移したらいけないとか、言われて、
うちのお墓も広島まで、帰っていたが、父がゴルフ場を見渡す墓地を買って、生前に移した。
友人の一人は、娘ばかり。
長男だけど、ご主人のお墓には入りたくないのか、
娘たちにお参りは入りませんよ、と、北陸の禅寺に夫婦で入るつもりだとか聞いた。
バリのモンパルナス墓地に。ご夫婦で眠っている吉田さんは、
50年もしたら、お墓は掘り返され、別人が入るのだと言われていた。
余程の著名人でない限り、皆そうなる。
お墓はいらない、という風潮は、
わたしが思うには、千の風になって、という歌が流行して加速された。
樹木葬を望む人も多くなった。
環境破壊が進む中、お墓は流されて、跡形もない人もいる。
お墓の中にはいません。
千の風になって、どこにでも飛んでいきたい、というイメージは、誰もが憧れるところ。
そうてない人もいるだろうけど。
生きているのが苦しかった、しんどかった。
もうゆっくり、地下で休んでたい。どこにもいきたくありません。
わたしは、若い頃から、海に^_^いて貰いたいと思っていたけれど、最近では、どうでも良くなった。
世界はコロナ。
身体は疲れて、熱中症も危ぶまれ、
お墓参りで、倒れそう。
加速全員で、レンタカーを借りて、広島にお墓参りに行ったことがあった。
焼けたく暑さ。
父はたまらず、木陰を探して腰を下ろしていた。草抜きしなから、
息子に、おじいちゃんが死んだら、こんなふうに草抜いて、会いに来てくれよ、と言ったそう。
お墓参りに、家族が寄り合う。
心の交流の場なのだけど、今年は、オンラインで、という家庭も多そう。
お墓参りの形は、それぞれ変わっても、
大事なのは、亡くなった人を思うこと。
忘れないでいる間は、亡くなった人も、生き続けることができる。
心の中に、魂の灯火が燃え続けていれば、
どこにいても、形はなくても、大切なものを失うことはないと思う。