今夜、フェスティバルホールでの、沢田研二のコンサートを聴いた。
ジュリーの生の声を聴くのは初めて。
素晴らしい声。練り上げられ、鍛え上げられた、幅と奥行きのある美声は、昨日昨日、できるものではない。
声帯の強靭な強さがなければ、壊れてしまうのではないかと思われるくらいの、熱唱が延々と続く。
身体も軽快で、若々しい。
写真で見たジュリーに、見たくないと思っていた先入観は、どこかに吹き飛んでいた。
ジュリーの鍛え上げられた美声は、魚河岸の競りで、鍛え上げられた声にも、通ずるものがあつて、職人の声。
ジュリーは、舞台で、爆発する。
野獣となる。自由に動き回り、思いの丈を発散させている。
内に秘めた若さは、昔のまま、風貌は自然体で、見かけは年取っているけれど、エネルギーは、底知れぬほど力に満ちている。
歌は、ドラマのように、感情を込めて、心をほとばしらせて歌う。
一曲が終わると、ありがとう、サンキュー、を連発して、深々と頭を下げている。
ジュリーの感謝が、自然に現れているのだということはわかるのだけど、こちらは、現実に引き戻されて、がっかり。何曲か空けての方が良い。
ジュリーの自然体は、あくまでも庶民的で、大衆的。
ジュリーのファンが、これだけ多く、一体感を持って、ジュリーに、フィデリティなのは、庶民性にあるのではないか?と思う。
小田一正のエリート的気取りもなく、玉置浩二のように、脆さと狂気的な不安定さもない。
いつも変わらず、気も使わず、自然な、肩の凝りのない舞台なのではないかとおもうのですが、ジュリーの熱心なファンの人達にとっては、違うのかな。