撮りためた、ビデオの中から、NHKのドキュメンタリー、彼女は安楽死を選んだ、を選んで。
前にも、テレビ番組で、スイスの民間団体で、同じ女性が、出演していた。
その時は、日本のジャーナリストの取材による番組だった。
そういう番組を見ると、耐えてきた人達の中に、わたしも、安楽死を選択したい、と思う人達が増えるだろう。
現に、日本から、安楽死を選択するひとが、年々増えている。
番組では、同じ病に侵され、やがては人工呼吸になることを覚悟して、家族に支えられながら、病と戦っている、女性も、紹介されている。
日本では、積極的安楽死は、認められていないが、
延命措置を外して、自然死を選ぶことは、患者の意思がはっきりしている場合、認められている。
そういう人の話は聞いたことがある。
どちらにしても、自ら死を選ぶことは、冷静な頭では、なかなか出来ない、と思う。
寝たきりで、死にたいと言っていた叔母は、延命処置をどうするか、選択してもらうと、拒否しなかつた。
これをしなければ、死ぬ、という時に、生きることを拒否出来る人は少ないと思う。
けれど、スイスに行って、安楽死を希望する人は増えている。
番組では、費用のことは一切語られなかったけれど、
作家の橋田壽賀子さんは、安楽死を予約しているとか言ってた時は、2000万円くらいかかるようなことだったと思う。
お金がないと、安楽死もできないわけで、
仮に、その金額が事実なら、スイスの受け入れ先は、殺人請負いの商売のような、後味の悪さも歪めない。
食べることを拒否して、亡くなった人もいる。
食事を食べないで、餓死することは、よほどの覚悟と、強い意思が求められる。
安楽死を選択する人は、処置するまえに、意思表示と必然性を、自らの口で表明しなければならないシステムになっている。
ならば、安易さに頼る甘えが見えるような気がする。
多額のお金がかかるのなら、選ばれた人の、ブライドを、安楽死を尊厳死に置き換えたような、言い訳に聞こえる。
生命の尊さを、正面に見据えて、生きることに、ひたすら立ち向かっている姿は、
たとえ、側から見ていて、辛くでも、本人は、そんなところにはいないような気がしてきた。
寝たきりで、言葉も喋れず、まぶたを閉じて、答える病人が、
生きる希望は、家族。家族との会話、だと答えている。
わたしの祖母が言っていた言葉は、
生きることは、会話をすること。
会話は、喋ることが出来なくても、まぶたの反応や、動かない手の指の。ほんのちょっとした動きでも出来る。
周りの話を聞いているだけでも、会話はできている。
思えば、寝たきりの叔母は、行くと。いつも嬉しそうに歓迎してくれた。
周りの、入院患者は、健康なわたしから見ると、
痩せ細ろえて、屍のように見えたけれど、
そうじゃない。
家族が来てくれることを、待っている。
家族との会話が生きる喜びと努力の励みなのだ、
と、感じている。