母が、歯を見せて笑った。
心から楽しそうに笑っている。
妹と久しぶりに、母の施設で待ち合わせた。
私と妹が、久しぶりに会ったので、母を囲んで二人が話をしていたら、
母も、会話に加わるように、言葉を発して、話し始めた。
顔は満面の笑顔。
いつもは口を噤んで、食べてもらうのに、口を開けるタイミングが難しくなっている母が、
歯を見せて笑ってくれた。
妹も、見たことのないという笑顔。
朝だからなのか、話し声で、娘達と一緒にいることを理解しているのか。
嬉しかった。
こんな笑顔を忘れていないのだ。
施設の職員に帰りがけ、母がよく笑って、話をしたというと、
朝食も、良く食べたとのこと。
母の体調も良かったよう。
老人の体調は めまぐるしく変化する。
時折、熱が出て、寝込むと、もうダメかなと不安になる。
二、三日寝込んで、再び起きて食事もダイニングで取れるようになると、
まだまだ、大丈夫、と楽観視したくなる。
今日は、お盆のお供えを持って、お参りに行く予定で、妹と待ち合わせをしていた。
昼食時に、施設を出て、すぐ近くに住む、弟に家に行き、久しぶりに、弟のお嫁さんと3人、話の花が咲いて 長居をさせて もらった。
楽しかった。
梅田に出て、妹と遅いランチは、軽いものが良いというので、お蕎麦。
夕食が近い時間だったから。
私の心配性に反して、妹には、母はまだまだ元気で長生きするように映っている。
そう言われると、気が楽になる。
最近では、母の体調を見ては、ネットで調べたり。
認知症の末期の症状だとか、末期ではどれくらい生きられるだろうか、とか。
友人のお母さんが亡くなられて、どれだけ悲しいだろうか、と私は自分の場合を想像して
訊ねるのだけど、全く悲しくない、と言う答えが帰ってきたりする。
あまり訪ねて行かなかった人は、それほどの実感も持たないよう。
訪ねて、嫌な顔されると、それが足を遠のかせる。行かないから、忘れられると言う悪循環。
でも、そう言う疎外感が、悲しみも薄れさせる。
私は、母の笑顔を見ることが目的のように、母の施設に通っている。
笑顔のない時の辛さと、母が笑ってくれる時の幸せ。
母は私の生き甲斐になっていることが自覚される。
母の死は、想像しては みるものの、到底耐えられそうにない。
笑顔があるから、耐えられそうにない。
母の小さな肩を抱くように、母の胸に顔をつけ、私は、母の
に抱かれている。優しい母の手が私を包む。