八千代座まで、毎年玉三郎の舞踊公演を観に来る人達は、東京や関西、遠くは北海道からやって来る。
なぜ、そこまでして、玉三郎に惹きつけられるのだろうか。
入場料は決して安くない。
お金に余裕があるから来るという人もいるだろうけれど、玉三郎を観るために、お金をキープして、貯金をしてやって来る人達もいるだろう。
玉三郎の舞台衣装は、逸品の職人の巧みな技と、時間をかけて作り上げる技術と芸術の結晶のような着物で、玉三郎の自前で作られている。
パリ公演のために、ベネチアの絹織物の専門店に行き、タフタを注文した。店の主人は、舞台衣装に、高級なタフタを使う人はいない、と驚いたそう。
玉三郎は、常に本物を追求する。これ以上のものは作れないというものを追求する。
玉三郎自身にも、完璧を求める。
身も心も、最高の状態で、観客の前に立ち、観客の真剣な眼差しに応えられる演技を披露するのでなければならないという哲学がある。
玉三郎の生活は、玉三郎を作り上げるためにある。
舞台に上がる以外の時間は、次の舞台に完璧な状態で勤められるように、何時間もパーソナルトレーナーに、身体のコンディションを整えてもらう。
教養を磨き、美意識を高め、美しい世界に生き、美しい心を持ち続け、ピュアな存在である続けることが、玉三郎の生き方であり、芸の道なのだ。
そんような役者が、他にいるだろうか?
玉三郎の言葉は、日本語の美しさを正確に表現している。観客の心に美しく響きながら入ってくる。
玉三郎の筆使いは、美しく、丁寧で、柔らかく、達筆だ。
意見がありましたら、どうぞ、と言われても、下手で汚い字を見てもらうことが恥ずかしくてできないと思い、出すのをやめた。
玉三郎は、別世界の人のよう。輝く美しさで溢れている。
みじかに感じられる人じゃない。
輝く彼方の星か、月に住んでいる人のよう。
観客は、美しい、と感嘆し、素晴らしい、ここにいて、玉三郎の舞台を見られることの幸福感に浸る。
他にはいない、唯一無垢の、純粋な世界の、人ではないかもしれないと錯覚さえしてしまう存在。
玉三郎の美しさは、玉三郎が語る言葉によってもわかる。
人間はどれだけ表面的に美しさを取り繕ってみても本質が滲み出るものです。そんな単純なことを大切にしたいのです。
日々を真剣に生きて、気がついたら人生の終焉を迎えていた。それで良いのではないか。
あるいはその前に踊れなくなるかもしれない。それはそれで僕の運命だったということです。
玉三郎は、八年前に、鷺娘と娘道成寺を封印した。
肉体の衰えと体力の不足という理由だった。
完璧な踊り、完璧な美しさを自らに要求する、厳しい人だからの決断だった。
完璧な美しさを残す映像と、玉三郎がこの部分なら観客に見てもらえると納得できる一部を踊る事で、
鷺娘と娘道成寺を、観客は観ることが出来た。感慨無量。
私は涙が出た。
玉三郎の魅力は、言葉では表現できない。いくら言葉で語っても、それでは、不完全だと思う。
入場料が高い、という人がいるけれど、私はそう思わない。むしろ、安すぎる。
玉三郎は、私欲が全くない人で、完璧な美を作り出すために全てを投入する人。
震災では、チャリティに手持ちのものを出し、八千代座に。今回は緞帳が出来た。
観客の冷えを防止する床暖房や、冷房、様々な改良の費用など、玉三郎が援助してきた。
私財を惜しみなく、明日を考えないで、今日を精一杯生きている玉三郎に、惹きつけられるのは当然
の事なのではないだろうか。